余暇重要

学生の頃は,将来はバリバリ働くのだろうと思っていた.

新卒で入った会社は,思いの外,業務が軽く,内容も楽しかった.

転職した今の会社は,もっと軽く,簡単で,仕事も好きなことだ.

学生の頃に学問に没頭し身を削っていたので,今仕事が楽に感じられる.

もし学生時代を毎日遊んで暮らしていたら,仕事が辛くなっていたと思う.

 

私には出世したいとか収入を上げたいとかの思いはない.

より仕事の質を上げたいとか生産性を上げたいとかの高い意識も別にない.

仕事が与えられることを感謝しつつ,慎重に丁寧に仕上げる.それが私の労働観だ.

仕事より余暇や休日の方が重要だと考えているので,

休む時は仕事のことなど頭にない.

終業すると,仕事のことが頭から消える.

終業後にも休日にも,いつもやることがある.

それらの活動の方が大事だ.

仕事は生活収入を得るための活動.

人生は仕事以外にある

 

仕事が好きなことであることは恵まれたことだと思う.

大学で専攻した分野だし,子供の頃から好きだったことだ.

就業観念や職業観を養うことは,こうして役立つのだと思う.

でも,仕事より余暇の方が重要だ.

名もなき世代

私は1985年生.いわゆる世代の名前の付いていない「名もなき世代」だ.

この世代は,1982-1986生とされる.

有名になることを好まず,特定の集団価値に染まらない,透明な世代だ.

ティーンズでインターネットを使い始めるが,上下の世代を跨げる言語を持てないでいる,閉じた世代でもある.

なぜこんなふうになっているのか,私の半生を描いてみる.

 

生まれた時は,両親や街は経済的にわりと豊かだったと記憶している.

小学生まで,公園で遊ぶ時にお山の大将的な存在がいたりと,コミュニティが自然と形成されていた.

任天堂は大きい.それから,私は親しまなかったが,少年漫画やミニ四駆も流行った.

中学は部活と勉強だけの3年間だった.そういう人は多かった.

偏差値的な尺度は当たり前にあったが,人間を測るには無効だとも痛いほどわかっていた.

私は高校生だったが,ゆとり教育が本格的に始まり,育った小中学生が増えてきて,私は今まで受けてきた教育を否定し,さらには自分を否定し,社会の価値は変化するものだと知った.

変わらないものなどないという諦念と,変わらないものを探そうとする心の動きが生まれた.

いわゆる自分探しは,この変わらないものを探そうとするところに動機付けられた行動だと思う.

 

部活と勉強だけの自分から変わろうと,大学では思い思いの経験を積んだ.

起業とか動画配信とか,ITの広がりから,革新とか創造とかが学生生活の目標になった.

コミュニケーションが就活で重視され,大学院へ進んで社会から外れる意識がかっこよくも感じた.

社会人になっても3年以内で辞めるのは,半分は当たり前で,半分はITスキルを独学するためだった.

即戦力にならないと悟ったのと,ITスキルがあれば大きな顔で仕事ができるという考えだった.

社会は不透明だった.

2012年までは.

 

2013年から,人材不足など,社会構造の劣化があらわになり,事情が全て変わった.

株価も上向いて,この時に今に至る投資マインドが育まれた.

人気だったライフスタイルの話題も,断捨離やミニマリズムに正解が落ち着いた.

テレビを捨て,新聞を手放し,車も子どもも持たないと決めた.

その後は,この透明なままに今に至るまで,普通に会社で働いて普通に資産を積み上げ,

昔家庭科で習った健康を大切にし,家事は当たり前にしている.

おおかたこんな感じ,そんな世代だ.

見えないものを求める

この社会で生きる意味を失うのは簡単なことだと思う.神さまとの関係を断ち切れば良いから.

今生きているということは,神さまがまだ生きる用があると生かしているからで,もし用が済んだならすぐに命は奪われるだろう.

生きているなら生きる用がある.

これはどんな人もそうだから,どんな人も生きている意味がある.

神さまに生かされている意味がある.

それを見失うことは簡単だ.祈らなければ良いだけだ.

 
例えば,お金のために働いている人がいるとする.貯まっても年間数十万円.

1千万円を持ちたいと思っても,10年以上かかる.

そしてその貯める目的は老後の医療費や介護費用で,家族に過度な負担や迷惑をかけたくないため.

つまり,今働いている理由が静かに死ぬためなのだ.

やり切れるだろうか.何のために労働に時間を提供し,精神を犠牲にしても,その目的は死ぬためなのだ.

そんな人生で良いのだろうか.

 
持続する幸福を消し去るものから離れ,幸福を持続させてくれるものを祈り求め,幸福を最大化する.その幸福は見えないものだ.

その見えない幸福を最大化するために生活の全てを最適化する.

この原理で生きれば,誰にも迷惑をかけずに幸せを享受できる.

そして,できるだけ多くの人に,見えない幸福を最大化してもらう行動をとる.

そうすれば地球上の見えない幸福の量は最大化する.現代版ベンサムである.

 

見えない幸福を追求することほど好ましい生き方はない.

そしてそれはお金を必要としなくても無尽蔵に生み出せる.

そして,この追求を阻む要因を避けることで,いつでもどこでも追求を再開できる.

見えない幸福を最大化するよう人生を最適化する生き方である.

定型にはまらない

かっこいいものにあまり関心がない.むしろダサいものこそいいと思う.

美術系建築を学んでいた時,かっこいいの極みを毎日のように見てきて,感覚が研ぎ曲がってしまったのだろう,情報系の大学生になってからも,それ以降も,かっこよさを追求することはなかった.

服でいえば,ネルシャツやデニムジャケットをわざわざ買ってきてくたくたになるまで洗濯して何日も好んで着ている.


かっこよさは簡単な概念だと思う.

移り変わるところは難しいと思うけど,かっこいいアイテムや髪型や姿勢や言葉遣いって学び取れるもので,作り出すものではない.

かっこよさは定型化されている.

もっと言えばスーツの型は古くから定番化されほとんど変わらない.

このように,かっこいいことはつまらないと感じるので,正直なところ,かっこよくなりたいと思ったことが今までない.


女性が美しくありたいと思うのと同じように男性がかっこよくありたいと思うのは,いずれも多数派の考えに過ぎない.

美しくあることが叶わない女性やかっこよくなれない男性がいるのはわかるとしても,美しさを求めない女性やかっこよさに価値を置かない男性も,この社会には少なからずいる.

女性は美しく,男性はかっこよく,という一元的な価値しか認めないのなら,それはつまらない見方であるだろう.


私はかっこよくあろうとは思わない.そうではない価値の世界を求める.

女性が美しくあろうとするのは自由でも,女性に美しさを強いたりなんかしない.

ダサい服を着るのが心地よく,ボサボサの髪で仕事場に向かいたい.

清潔な身だしなみは最低限守るとしても,それ以上かっこよさの定型にはまりたくない.

それで嫌われてもいいと思っている,私が死ななければならないのではないから.

多様性を考えている.

趣味へ投資する

簡単に得られるものにしか興味を持てないのなら,それは精神の貧しさにつながる.

すぐに結果を得て満足するだけなら,その価値も相応ほどしかないだろう.

そんな即席な結果を得ようと努力するなら,その時間は無駄であると思う.

じっくり時間をかけて得られることの方が,喜びも楽しさも,見返りも配当も大きい.

時間資源を投資するなら,何に投資するかが大事だ.

長期的に考える重要性は,趣味への投資も同じことだ.

 
じっくりかけて楽しむには,毎日のように少しずつ訓練する必要がある.

今まで受けてきた教育がこれに当たる.

嫌でも毎日学校へ行って授業を受けてきた.おかげでできるようになったことは多いのではなかろうか.

これと同じで,自分でカリキュラムを組んで学ぼうとしなくてはならない.

好きであれば続けられると言われるが,この努力を続けられるかどうかが,好きであるかどうかに懸かっている.易しくはない.


先日書斎から本を自炊し,部屋がすっきりした.何か新しいことを始めたくなった.

今まで求めていたことが何か即席で得られるようなことばかりな気がして,己を恥じた.

今この書斎にあるものが追求したいこと全てであるなら,人生は思っているより軽く,それでも充分楽しめる気はする.

私の今までの訓練で,そこそこにできることがいくつかある.

今までの教育環境で習得したこともいくつもある.

それらの総和で満足できる人生だったのか,或いはそれらを相乗して新しく歩み始める人生にしたいのか,

明確になるまでもう少しこの書斎で漂流してみる.

今のままでも充分楽しいからだ.

豊かさを更新する

物を減らしたくなるとき,減らしたいという気持ちが欲望なのか理性的な根源なのか,見極める必要がある.

物が少なくて済む暮らしは,確かに軽快で心地良い.

望むものなら物が少なく済む暮らしを選びたい.

しかし,実際に物を減らすと,目標が失われる.

不要な物を多く持つ状態からは脱せても,好きな物や必要な物は減らせず,むしろ多く持つ状態にはまってしまうこともある.

結局,少ない物で暮らすことができない.減っても増やしてしまう.

 

豊かさとは何だろう.物が少ないことが豊かであることは真理だと思う.

しかし,好きな物や必要な物が多く手元に残っていることで,楽しみが多い生活を送れる豊かさもある.

けれども,物が少ない暮らしの豊かさとは異なると思う.

好きなことをして楽しく暮らす豊かさと,物が少なく物事にとらわれない豊かさが,少なくともあるだろう.

分類するなら,前者は興奮性の,後者は抑うつ性の,豊かさだとしてもいいだろう.

 
適正量は,生活を見つめ直していれば,自然と決まってくる.

しかし,どうしてそれを超えてくる物も存在する.

ワンインワンアウトが守れない買い物がある.

物が少ない状態は,自分が変わる前兆だ,とあるミニマリストは言う.

ミニマリズムは自分を変えたい時に実行するものだとされる.

ミニマリズムを経由し,私は,変われた.

今後また停滞して変化を望むようになると,物を減らす時は来るだろう.

豊かさの定義は更新されるのだ.

少しだけ得ること

少しだけ得ることを大切にしたい.

多く得ても少なく得ても,満足や幸福や快楽の量は大して変わらない.

脳のドーパミン放出量には上限がある.

多くを得るために多くの資源や努力を割り当てるより,

少しの閃きで少しの結果だけ得るような活動を重視したい.

そのほうが,少しの快楽を長い間楽しめると思うのだ.

 

快楽は慣れてしまうと減っていく.

大きな快楽より小さな快楽,大きな幸せより小さな幸せの方が持続性がある.

規模を小さくすることで幸福に近くなるのはなぜだろう.

人間はあらゆるものの量が等身大でないと,まともに受けられない.それを適正量という.

プライドが高ければ多くの量を受けるが,それが相応しくないと考える人が同じ量を受けても幸せにはならない.

少なくていいと考える人は,少なくても幸せになれる

たとえ社会の多くの人が得られない経験をしていても,少なくてよいと考えていれば,多いより少ない方が良い.

 

快楽には上限があり,慣れて学習される.

これを踏まえていれば,脳を不幸にならないようにコントロールできる.

少しの幸せを受け取れれば,毎日少しの出来事でめいっぱいに幸せになれる.

少しのことに感謝する余裕も持てる.

多くをもっともっととがつがつと得ないと幸せではないと考える人は不幸だろう.

少しの出来事で幸せを受け取り感謝する生き方を私は選ぶ.

そんな人が世の中にも多いとして社会を考えてみたい.

買い物を反省する

意識できていなかったが,買う物は人の影響を受けてきた.

同僚や知人に,私の価値観と異なる人が当然いる.

彼らの中で,いいなと思った人の買い物に付き合ったことが何度もある.

なるほど新しい文化である,つい同じように買っていた.

私の生活に定着したものもある.しかし,一度の経験となって終わったものもある.

どんな買い物も,お金を払った価値はあった.

買った後で反省するからだ.

この買い物は無駄ではなかったか,誰のためになっただろうか,次も同じように買うだろうか.

だからどんなに影響されて買ったとしても,人を恨んだことはない.

今までに1人,金銭感覚が狂っていた貧しい人がいて,危険を感じたことがある.

向こうから絶交を申し込まれたので,去る者追わず,関係を絶った.

それは良かったと思う.続いていたら高価な物を次々買っていただろう.

関係する人を選ぶことはあまりしたくない.せっかくの縁だからだ.

でも,少しまずいと思ったら,私はその人との会話の中で直接言うことにしている.

それで縁が切れるようならそれでいい.

私は影響されやすい性格だが,私が狂うほど影響されない術は,経験から学んだ.

ミニマルなDINKS

妻と結婚してもうすぐ10年になる.子どもはない.

地球の人口爆発が今世紀続くことを考えると,夫婦や日本よりも,地球環境こそ重要と思っているからだ.

しかも,私にはノンセクシュアルな傾向がある.妻も似ている.

子どもを持つ理由がないのだ.

よって,残りの人生を夫婦で働いて過ごすことにしている.

とはいえ,多くの収入は必要ない.長い労働も同様に必要ない.

小さく稼いで小さく使って暮らす.

それで充分.

この考え方はミニマリズムと親和性があるが,物を減らすことに主眼は置かない.

労働の目的は,やることが適度に与えられ,適度な刺激やストレスを受けられること.

退屈を回避できること.自力でではなく

こうして,私たちはできるだけ多く持たなくて済む暮らしを選択している.

そして,長く幸せでいる.

静かに生きたい

今の時代,人々の話がやかましくなりがちなのは,触れているメディアを各自で好きに選んでいるからだ.

大切な時間をさいて視聴しているのだから,干渉されたくないだろうし,勧められても慎重になる.

それでよいとされている.問題は,それを個人の範囲で収められるかだ.

ひと昔は,好きな話題を人に振っても,周りはみな楽しんで聞いていた.

今はどうだろう.発信しても読む人は限られているし,真剣に読む人はさらに少ない.

個人で閉じている.

このような環境で最も適する生き方は,静かに生きることだ.

有名になったら,名前を売る仕事になる.

そういうわけで,私は名前で活動する仕事を避けている.会社に所属し,一定の収入で暮らしている.

収入は多くない.でも,ほどほどの労働で良い.

私はこの部録を,多くの人に読まれたいと考えない.

読みたい人が少し読めるようにしておく程度の意図だ.

全く発信しないのも,時代的にそぐわない.でも,バズったり炎上したりはしたくない.

ひっそりと運営し,見つけた人がぱらっと見られるようにするだけの部録にしたい.

なぜなら,私はただ静かに生きたいからである.