名もなき世代

私は1985年生.いわゆる世代の名前の付いていない「名もなき世代」だ.

この世代は,1982-1986生とされる.

有名になることを好まず,特定の集団価値に染まらない,透明な世代だ.

ティーンズでインターネットを使い始めるが,上下の世代を跨げる言語を持てないでいる,閉じた世代でもある.

なぜこんなふうになっているのか,私の半生を描いてみる.

 

生まれた時は,両親や街は経済的にわりと豊かだったと記憶している.

小学生まで,公園で遊ぶ時にお山の大将的な存在がいたりと,コミュニティが自然と形成されていた.

任天堂は大きい.それから,私は親しまなかったが,少年漫画やミニ四駆も流行った.

中学は部活と勉強だけの3年間だった.そういう人は多かった.

偏差値的な尺度は当たり前にあったが,人間を測るには無効だとも痛いほどわかっていた.

私は高校生だったが,ゆとり教育が本格的に始まり,育った小中学生が増えてきて,私は今まで受けてきた教育を否定し,さらには自分を否定し,社会の価値は変化するものだと知った.

変わらないものなどないという諦念と,変わらないものを探そうとする心の動きが生まれた.

いわゆる自分探しは,この変わらないものを探そうとするところに動機付けられた行動だと思う.

 

部活と勉強だけの自分から変わろうと,大学では思い思いの経験を積んだ.

起業とか動画配信とか,ITの広がりから,革新とか創造とかが学生生活の目標になった.

コミュニケーションが就活で重視され,大学院へ進んで社会から外れる意識がかっこよくも感じた.

社会人になっても3年以内で辞めるのは,半分は当たり前で,半分はITスキルを独学するためだった.

即戦力にならないと悟ったのと,ITスキルがあれば大きな顔で仕事ができるという考えだった.

社会は不透明だった.

2012年までは.

 

2013年から,人材不足など,社会構造の劣化があらわになり,事情が全て変わった.

株価も上向いて,この時に今に至る投資マインドが育まれた.

人気だったライフスタイルの話題も,断捨離やミニマリズムに正解が落ち着いた.

テレビを捨て,新聞を手放し,車も子どもも持たないと決めた.

その後は,この透明なままに今に至るまで,普通に会社で働いて普通に資産を積み上げ,

昔家庭科で習った健康を大切にし,家事は当たり前にしている.

おおかたこんな感じ,そんな世代だ.

定型にはまらない

かっこいいものにあまり関心がない.むしろダサいものこそいいと思う.

美術系建築を学んでいた時,かっこいいの極みを毎日のように見てきて,感覚が研ぎ曲がってしまったのだろう,情報系の大学生になってからも,それ以降も,かっこよさを追求することはなかった.

服でいえば,ネルシャツやデニムジャケットをわざわざ買ってきてくたくたになるまで洗濯して何日も好んで着ている.


かっこよさは簡単な概念だと思う.

移り変わるところは難しいと思うけど,かっこいいアイテムや髪型や姿勢や言葉遣いって学び取れるもので,作り出すものではない.

かっこよさは定型化されている.

もっと言えばスーツの型は古くから定番化されほとんど変わらない.

このように,かっこいいことはつまらないと感じるので,正直なところ,かっこよくなりたいと思ったことが今までない.


女性が美しくありたいと思うのと同じように男性がかっこよくありたいと思うのは,いずれも多数派の考えに過ぎない.

美しくあることが叶わない女性やかっこよくなれない男性がいるのはわかるとしても,美しさを求めない女性やかっこよさに価値を置かない男性も,この社会には少なからずいる.

女性は美しく,男性はかっこよく,という一元的な価値しか認めないのなら,それはつまらない見方であるだろう.


私はかっこよくあろうとは思わない.そうではない価値の世界を求める.

女性が美しくあろうとするのは自由でも,女性に美しさを強いたりなんかしない.

ダサい服を着るのが心地よく,ボサボサの髪で仕事場に向かいたい.

清潔な身だしなみは最低限守るとしても,それ以上かっこよさの定型にはまりたくない.

それで嫌われてもいいと思っている,私が死ななければならないのではないから.

多様性を考えている.