見えないものを求める

この社会で生きる意味を失うのは簡単なことだと思う.神さまとの関係を断ち切れば良いから.

今生きているということは,神さまがまだ生きる用があると生かしているからで,もし用が済んだならすぐに命は奪われるだろう.

生きているなら生きる用がある.

これはどんな人もそうだから,どんな人も生きている意味がある.

神さまに生かされている意味がある.

それを見失うことは簡単だ.祈らなければ良いだけだ.

 
例えば,お金のために働いている人がいるとする.貯まっても年間数十万円.

1千万円を持ちたいと思っても,10年以上かかる.

そしてその貯める目的は老後の医療費や介護費用で,家族に過度な負担や迷惑をかけたくないため.

つまり,今働いている理由が静かに死ぬためなのだ.

やり切れるだろうか.何のために労働に時間を提供し,精神を犠牲にしても,その目的は死ぬためなのだ.

そんな人生で良いのだろうか.

 
持続する幸福を消し去るものから離れ,幸福を持続させてくれるものを祈り求め,幸福を最大化する.その幸福は見えないものだ.

その見えない幸福を最大化するために生活の全てを最適化する.

この原理で生きれば,誰にも迷惑をかけずに幸せを享受できる.

そして,できるだけ多くの人に,見えない幸福を最大化してもらう行動をとる.

そうすれば地球上の見えない幸福の量は最大化する.現代版ベンサムである.

 

見えない幸福を追求することほど好ましい生き方はない.

そしてそれはお金を必要としなくても無尽蔵に生み出せる.

そして,この追求を阻む要因を避けることで,いつでもどこでも追求を再開できる.

見えない幸福を最大化するよう人生を最適化する生き方である.

豊かさを更新する

物を減らしたくなるとき,減らしたいという気持ちが欲望なのか理性的な根源なのか,見極める必要がある.

物が少なくて済む暮らしは,確かに軽快で心地良い.

望むものなら物が少なく済む暮らしを選びたい.

しかし,実際に物を減らすと,目標が失われる.

不要な物を多く持つ状態からは脱せても,好きな物や必要な物は減らせず,むしろ多く持つ状態にはまってしまうこともある.

結局,少ない物で暮らすことができない.減っても増やしてしまう.

 

豊かさとは何だろう.物が少ないことが豊かであることは真理だと思う.

しかし,好きな物や必要な物が多く手元に残っていることで,楽しみが多い生活を送れる豊かさもある.

けれども,物が少ない暮らしの豊かさとは異なると思う.

好きなことをして楽しく暮らす豊かさと,物が少なく物事にとらわれない豊かさが,少なくともあるだろう.

分類するなら,前者は興奮性の,後者は抑うつ性の,豊かさだとしてもいいだろう.

 
適正量は,生活を見つめ直していれば,自然と決まってくる.

しかし,どうしてそれを超えてくる物も存在する.

ワンインワンアウトが守れない買い物がある.

物が少ない状態は,自分が変わる前兆だ,とあるミニマリストは言う.

ミニマリズムは自分を変えたい時に実行するものだとされる.

ミニマリズムを経由し,私は,変われた.

今後また停滞して変化を望むようになると,物を減らす時は来るだろう.

豊かさの定義は更新されるのだ.

少しだけ得ること

少しだけ得ることを大切にしたい.

多く得ても少なく得ても,満足や幸福や快楽の量は大して変わらない.

脳のドーパミン放出量には上限がある.

多くを得るために多くの資源や努力を割り当てるより,

少しの閃きで少しの結果だけ得るような活動を重視したい.

そのほうが,少しの快楽を長い間楽しめると思うのだ.

 

快楽は慣れてしまうと減っていく.

大きな快楽より小さな快楽,大きな幸せより小さな幸せの方が持続性がある.

規模を小さくすることで幸福に近くなるのはなぜだろう.

人間はあらゆるものの量が等身大でないと,まともに受けられない.それを適正量という.

プライドが高ければ多くの量を受けるが,それが相応しくないと考える人が同じ量を受けても幸せにはならない.

少なくていいと考える人は,少なくても幸せになれる

たとえ社会の多くの人が得られない経験をしていても,少なくてよいと考えていれば,多いより少ない方が良い.

 

快楽には上限があり,慣れて学習される.

これを踏まえていれば,脳を不幸にならないようにコントロールできる.

少しの幸せを受け取れれば,毎日少しの出来事でめいっぱいに幸せになれる.

少しのことに感謝する余裕も持てる.

多くをもっともっととがつがつと得ないと幸せではないと考える人は不幸だろう.

少しの出来事で幸せを受け取り感謝する生き方を私は選ぶ.

そんな人が世の中にも多いとして社会を考えてみたい.